
調査
「人間は狂気である。
目に見えない神を好み、目に見える自然を破壊する。
自らが破壊する自然は、
自らが崇拝する神であるという自覚がない。 »
ヒューバート・リーブス
人間は体系の退廃となった。
その発達は物質面で実現する。
精神面を覆い隠し、我々と精神を切り離す大きな不安定に際立つ。
我々の欲求はしかし、複数の面に関係している:
物質(身体)/ 心理(魂) / 精神性(精神)
安定を定着させるには、これらの3要素を集結する必要がある。
宇宙の概念では、すべてがこのようにできている。
その基本原理を回復させ、父祖伝来の価値を蘇らせることで、我々は早急に自然の掟や知性と和解すべきである。
これは数万年もの間真価を発揮してきたものだ。
自然を観察し尊重することだけが、
揺るぎない原理との和解を可能にする。
自然から離れると過ちへ近づくと、古代の人々は言った。
すべては手の届く自然の中に存在する。
我々には魔法の言葉も複雑で科学的な計算も必要ない。


身体的安楽のため、すべては地上で我々に与えられているが、
精神的な糧を犠牲にして、
物質的な欲求を我々は養っている。
個人の穢れない精神を物質的精神、
物質的媒体へ我々は移動している。
21世紀の人間は、
精神と脳の知識をもはや人類の媒体ではないデジタルへ転送し、
アイデンティティの喪失だけでなく、
純粋な精神と判断力の消失を引き起こす。
それは知識が消滅する危機を冒しながら、
活性素材を不活性媒体へ転送することである
(カオス)。
こうして人類がその知識や創造の軌跡を維持するため、
創造されたすべてを保存する概念が社会に導入されたのだ。
保存の保証もなく情報や知識を外界へ捨て去ることで、
我々は緊迫し危険な局面にある。
我々がいるのは仮想世界だ。
知識は波動により保存されるが、地上で失われる。
それぞれのものの中へ、本質的な価値を探しに行くべきである。
表面的な価値は必要ない。
これは純粋に人類の病だ。
自ら構築したものを人間は破壊する。
大宇宙のひとつひとつが、ある任意の小宇宙に相当する。
今日、地球が呼吸するのを妨げているかのようだ。
空虚な宇宙は空虚でない。
背景音がある。これが宇宙の声だ。
宇宙空間で発生する背景音の中に、それが位置する。
空虚は存在しない。
物質/反物質/音…で宇宙は形成される。
宇宙の心臓部は、拍動しながら創造を養う。
これが宇宙規模で行われていること。
すべてはすべてに従属する:メカニズム、リズム。
地上にあるすべて、宇宙に存在するすべては命あるもの。
すべては動きあるもの。不活性なものは何もない。
生命はあらゆる所に存在する。
すべては互いに依存する。
色彩の性質がその一例だ。

すべてはそれぞれ従属している。宇宙を構成する要で、
他の要素に従属しない存在はい。
これが志願期だ!

個人はその環境との関係を再考すべきである。
事実、ユニバーサル・ライフは宇宙の要素すべてに適用される。
生命は地球上のものに 限られはしない。
各要素は独自の生命形態を有し、多種多様な形状で表現され得る。
不活性なものは何もない、すべての物質は生命にあふれ、
一般に知られる人間の魂とは異なる魂を有する。
動物、植物、鉱物は生物であり、魂である。

宇宙を構成する各要素は、
生命を有する要素であり、
そこには鉱物も含まれる。

宇宙を構成する要素に、
不活性なものは何もない。

石も同様に魂である。
石は生命すべてに宿る絶対物質の神髄なのだ。
命ある物質はすべて、生命の源はすべて苛酷にこの鉱物段階に立ち還る。
命ある物質のひとつひとつ、人間のひとりひとりが元来石を有する。
知性、精神、物質に生命を吹き込む不可視性は、神の知性だ。
神の知性は訪れ、そして訪れた時と同じように去ってゆく。
神の源であるこの要素は、
物質に完全に属しているわけではない。
21世紀の人間は創造への敬意に欠ける。
すべてを破壊する。
人類や地上生活の初期から、動物との関係から人間がこれほど離れたことはなかった。
動物を生物ではなく、オブジェと同等に格付けすることに人間は成功した。現在人間は、動物を自身に奉仕するオブジェと見なす。
互いに助け合い、協力関係にあった時代の人間と動物の関係はもはや存在しない。
動物が人間を助ける作業も存在した。今日すべては完全に消滅し、消費または「化学」のためにのみ人間は動物を利用する。
他の動物を養うためにさえ、動物は利用される。
まるで同じ世界でなくなってしまったかのようだ。動物の行動は意味や教訓を豊かにしたにもかかわらず。
人間はそれを数多く模倣したが、進歩や最近の知識によりすべては消去された。


動物と人間の間にもはや関係など存在しない。
動物が供給、食糧、消耗品の材料に縮小され、やがて消滅する段階。
以前のように機能することはもはや不可能である。
昔はひとつのまとまりだった。もはやまとまりは存在しない。
片側に人間、反対側にオブジェも含めた残りのすべて。
人間が動物界との決定的な決別に終止符を打った時、自然のバランスと人間を繋ぎ直すものはもはや何もない。
植物は絶滅の危機に瀕し、我々は動物たちと決別状態。
人間はまもなく自然に存在するものへの接触を絶たれるだろう。
我々は素朴へ立ち還らねばならない。
我々が破壊したバランスを修復し、
我々と動物を隔てる距離を縮めるのは我々である。
敬意を持ってのみ、我々は動物を食することができる。
人間は、自らが食するものの起源を知ることなく消費する。
食するものに意識を向けよう。
それが動物であれ、植物であれ、苦しみへも意識を向けよう。
食糧の生命を摂取しているのだ。
すべての生命は総合的なエネルギーの交流なのだから。
個人がバランスのとれた状態とは、物質的であると同時に精神的であるべきだ。
身体はその環境に従属するが、精神も同様である。
人間は 常に2つの矛盾の間で揺れ動く。
そのひとつに陥らなければ、人間は自らの道を進むだろう。
動きなしに、生命は存在しない。
これが陰陽の原理だ。
これが人類すべての進展であるべきだ。
精神により向上を計画する。
宇宙は永遠に変貌し続ける集合体である。
時の加速器のように、拡張または収縮できる。
人間はその内に光を有する。ただし光は光として我々の前に現れない。我々が光の内で生きるから。我々が利用することで、光が我々の内で思想となるから。
しかし我々の内に生きる思想は、現実には過去からやって来るもの、我々の内で最も成熟したもの、前世での成果なのだ。
その昔意志であったものは思想となり、思想は光の姿で現れる。以前の世界、昔の世界は思想の中で死を迎える。あるいは別の言い方をすれば、光の中で死を迎える。
これが世界の神秘のひとつである。
宇宙を見てみよう。光が駆け巡る。光の中に思想は生きる。しかし思想に満ち溢れたこの光の中で、世界が死を迎える。
世界は常に光の中で死を迎える。
現在では過去が光輝いて我々の前に現れる、そしてあらゆる場で過去が未来を包み込むといつか言う時、世界を正確に語れる。なぜなら現在はあらゆる場で、過去と未来がともに築き上げるものに過ぎないからだ。未来とは実際、物質の力の中に横たわるもの。過去とは、光の美しさの中に輝くもの。この光は明らかになるものすべての全体像として捉えられる。当然のごとく、光という言葉はここでは、音と熱の中に現れるものも含まれる。
人間は、過去すなわち思想の光のオーラから来るものすべてに包まれた未来の種のように自らを位置づける場合に限り、自らを理解することができる。

光は過去に由来し、
影響を及ぼすもの。
闇は未来へ向かうもの。

光は思想に属するもの。闇は意志に属するもの。
ひとつのものはまず、発せられた言葉であり、その後揺るぎない形となる。
しかし揺るぎないものとなる前にまず、このものは思想であった(…)
創造は思想、ものの概念の一部である。
その後神性が言葉により思想を空間に表現した。
外界で見るもの、植物、鉱物は
揺るぎない形をとった言葉なのだ。